神様はいると考えるほうが合理的である

今年は初詣に行くかどうか迷った。

なんとなくめんどくさくなり、今年は行かなくてもいいかなという考えがよぎった。

でも、「なんとなく」気持ちが悪い。

「なんとなく」の感情を深堀しても、うまく説明ができない。

初詣に行って始まる1年と、初詣に行かずに始まる1年を想像してみる。

どちらも、同じ1年だと思うし、たぶん数日したら初詣に行かなかった事はどうでもよくなっているだろう。

しかし、行かないと後悔しそうだ。

いつもしている事を、しないというのは不安の種になる。

もし、悪いことが起きれば「初詣に行かなかったせいかも?」と非合理的な事を考えるかもしれない。いや多分考える。

 

よく考えてみると、「神様はいる」と考える方が合理的である。

「神様はいない」事の証明はできないわけなので、「いる」と仮定したほうが合理的なのだ。

ちなみに一度も厄払いに行ったことはないが厄年に悪い事は起きなかった。

神様が逆恨みして罰をあたえるということはない。

 

もし悪いことが起きれば信仰心がないためではなく、

自分のせいだ。

もし良いことが起きれば神様がみていてくれたためではなく

たまたまだ。

 

では何のために神様はいるのか?

「自分が思っていたのとは違う」事が起きた時の避難場所なのかもしれない。

不条理、非合理的な事が起きた時に神を思い浮かべる。

また、思いもよらない良いこと(奇跡的)が起きた時にも神を思い浮かべる。

 

私も何度も経験した。

 

物理世界ではまだ神は見つかっていないと思うが

精神世界では神がいると仮定して生活したほうが矛盾がなく生活できると思う。

 

そういうわけで、今年も初詣に行きました。